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平成17年11月17日号
ISOWAビトの物語
 会社に製品あり、製品の影に人あり、人に歴史あり――。

 株式会社ISOWAを形成してきたISOWA人――ISOWAビト。その生きざまを追う時空を超えた旅へと、社長・磯輪英之がみなさまをお連れするこの連載。6回目の今回は、目を外に向けてみましょう。ISOWAが海外へと歩を進めた昭和30年代末のお話です。

 ISOWAのプリスロが成功を約束された昭和39(1964)年、折りしも東京オリンピックの年に、段ボール業界では一大革命が起こっていました。『ジョイント革命』と呼ばれたものが、それです。アメリカでは以前から常識となっていた技術が、遂に日本でも脚光を浴びることとなったのです。

第3回 “ISOWAビト”海外への布石

第1話 技術を求めアメリカへ

10ヶ月後に実った“ラブレター”

ニューヨーク市郊外のジェネラル社本社。(後にBHS社、エンバ社のアメリカでの販売代理店を担当した会社。
 
 段ボール箱製作の最終工程である接合工程は、作業員がワイヤーを打ち込むのが、当時の日本では普通だった。アメリカでは十数年前から常識となっていた“のり付け”によるグルー・ジョイント箱は、強度が不安視され、日本では依然として普及していなかった。

  日本園芸農業協同組合(日園連)の技術委員会が大規模な輸送試験を行ない、その結果、「グルー・ジョイント箱は従来のワイヤー・ジョイント箱より優れ、かつ、生産合理性が極めて高い」という結論に達し、「日園連扱いの青果物用段ボール箱は全面転換に踏み切る」と発表する。これでグルー・ジョイント箱に対するユーザーの不安は払拭された。

  この流れを受け、段ボール需要は一気にグルー化へと傾いた。そこで登場したのが、フォルダ・グルアだった。フォルダ・グルアとは、プリンタスロッタによる印刷、罫入、溝切の工程を経た段ボールシートを、折り曲げからのり付け、矯正(箱になったとき、正確な立方体になるようにする直角矯正のこと)、結合まで、一貫して自動的に高速で行なう機械のことだ。製函部門の生産体系を従来の人手によるワイヤージョイント工程から“機械化”へ、生産テンポを“時速”から“分速”へと導く革命的なもので、『ジョイント革命』と呼ばれたのはそのためである。

  こうした中、三菱重工が、ラングストン・タイプのハイスピードで高い性能を持つフォルダ・グルアを発表する。また、専業メーカートップの丹羽鉄工所は、アメリカのボステッチ社と技術提携し、日本の業界にマッチした性能のフォルダ・グルアを製作した。

  ISOWAはどうだったのだろうか。実はISOWAでも、昭和37年頃からフォルダ・グルアの研究に乗り出してはいた。しかし、未だ名古屋のいちローカルメーカーの域を脱しておらず、自力での開発を強いられていたISOWAは、三菱・ラングストン組、丹羽・ボステッチ組に技術面で大きく水をあけられてしまったのだ。

  「業界で生き残っていくためには、海外メーカーとの技術提携は必要不可欠」。

  こう決断したISOWAは、貿易会社を通じて提携相手を探し、目標をアメリカはニュー・ジャージー州にあるジェネラル・コルゲーティッド・マシーナリー社に定めた。ジェネラルは、ラングストンやボステッチに比べると規模も技術も及ばなかった。しかし、技術後進国・日本のローカルメーカーの提携先としては、これが精一杯。それでも、提携が成功した暁には、その事実だけで大きな威力を発揮するのは間違いなかった。つまり、“箔”がつくわけだ。それほどまでに日本の段ボール業界は、アメリカから立ち遅れていたのだ。

  磯輪英一はジェネラルに熱意を込めた手紙を送り続け、「とにかく、話だけでも聞いてほしい」と頼みこみ続けた。遂にジェネラル側が折れ、「話し合ってもいいから、一度こちらにいらっしゃい」という返事が届いたのは、最初に手紙を書いてからなんと10カ月が過ぎた頃だった。

単身渡米――アメリカ・ジェネラル社との技術提携

現相談役の磯輪英一が、SAS航空で羽田空港よりアメリカへ出発直前の写真。
 
ジェネラル社を訪問した時の記念写真。 前列右ジェネラル社社長Mrミラー、左現相談役の磯輪英一、 後列右副社長Mrクルグリンスキー、中央通訳をお願いしたアメリカ在住の女性。
 昭和39年1月7日。次代を担うISOWAビトのひとり、次男の保之(現常務取締役)が7歳を迎えたその日に、英一は単身アメリカへと旅立った。ときに英一、35歳。「業界最大手の聯合紙器(現レンゴー)に機械を納めるのは、三菱みたいに大きなところの仕事。ウチは象の足にアリが取り付くようなことはしないよ」。

  このように英一は、常日頃から分不相応な真似はせず、堅実を旨としようと仲間に話していた。だが、初めての、しかも、ISOWAの将来を左右する大きな使命を帯びた海外出張である。日の丸の旗と万歳の連呼で見送ってくれた社員たちの姿が頭から離れない。英一は高揚し、そして気負ってもいた。

  「いつか、必ず、レンゴーさんに機械を買って頂けるよう、技術力を高めてみせる!」。

  アメリカへと向かう機内で、英一はひとり静かに闘志を燃やしていた。

  目指すジェネラル社があるのは、アメリカ東海岸・ニュージャージー。ニューヨークの隣に位置する州だ。今でこそ直行便で日本からニューヨークまではおよそ半日の空の旅だが、当時はまだプロペラ機の時代。まずハワイで1泊し、翌日、西海岸のサンフランシスコへ向けて出発。さらに航空機を乗り継いでアメリカ本土を横断し、東海岸へと達する長旅だ。ようやくの思いでニューヨークの空港に降り立った英一。しかし、彼を待っていたのは、思わぬハプニングだった。

  「迎えに来ているはずの通訳の姿が見当たらない。これは困ったな、と思っていたら、なんと、ジェネラルの副社長が私を出迎えてくれたんです」。

  事前に写真を送っていたため、英一を見つけてくれたわけだ。日本人の姿もまだ珍しく、目立っていたに違いない。

  「結局、空港では通訳と会えず、副社長の車で送ってもらうことに。右も左も分からないので本当に助かりました。ただ、私は英語が得意なわけではなかったので、会話が続かず、別な意味で困りましたが(笑)」。

  兎にも角にも無事アメリカに到着し、空港には相手先企業の副社長が出迎えに。順調な成果を期待させる滑り出しだったが、意に反し、交渉は遅々として進まなかった…。




   文中敬称略