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平成18年1月17日号
ISOWAビトの物語

 会社に製品あり、製品の影に人あり、人に歴史あり――。

 株式会社ISOWAを形成してきたISOWA人――ISOWAビト。その生きざまを追う時空を超えた旅へと、社長・磯輪英之がみなさまをお連れするこの連載。8回目の今回は、創業者であり私の祖父にあたる磯輪源一の時代にまでタイムスリップしてみましょう。

 明治32年に生まれた源一は、生後間もなく母親と死別。6歳まで母の里、名古屋市西区深井町で育った後、再婚した父親に引き取られ、名古屋市中区桜町に移り住みます……。

第4回 “ISOWAオリジナル”の源

第1話 「あの」激動の時代へタイムスリップ

“鉄を削る魅力”にとりつかれて

昭和30年代の創業者磯輪源一
「鉄が削れる! あの硬い鉄が……」。

 珍しさと驚きが幼い源一を包んだ。それは、小学校の同級生の祖父が経営する石原鉄工所を覗いたときの出来事だった。工場の中では2人の男が機械に向かっている。旋盤だ。1人が手で旋盤を回すと、もう1人が光る切粉を飛び散らせて鉄を削っていたのだ。源一はひと目で、鉄を削る魅力にとりつかれてしまった。明治41年、9歳のときのことだ。

 明治43年3月、大成尋常小学校を卒業した源一は、舟大工だった父親の使い走り、親戚が営む製本屋を経て、名古屋市中区伝馬町(現在の錦1丁目)にあった茶舗(お茶の卸と小売)、北村龍茗園へ丁稚(でっち)として奉公に入った。

 働き始めて2年が経ったころ、源一に独立心が芽生え始めた。

 「いつまでもこんな丁稚奉公をしていてはいけない。大人になったら独立して、自身で商売をやるんだ。そのためには資本が要る。お金を貯めなくては……」。

 加えて源一は、小学校時代に見た“鉄を削る機械”旋盤の魅力が忘れられなかった。

 「なんでもいいから、とにかく自分の手で機械を作りたい。そのためには、技術を身につける必要がある」

 念じれば通ず。源一の思いは、北村龍茗園の支配人を動かした。

 「私が勤めていた松山紡績なら機械技術を習得できる。お前にやる気があるのなら、働き口を紹介してあげよう」

 まさに“渡りに舟”の提案にしたがい四国・松山に渡った源一は、松山紡績の組立、修理班約20名の一員に。機械製造技術をマスターするための第一歩を踏み出したわけだ。人一倍熱心で呑み込みが早い源一は、やがてこの仕事に飽き足らなくなり、新しい技術を体得できる職場を求めて大阪へ向かった。尼崎製鋼所、同じく尼崎の日本硝子、そして、大阪は淀川沿いの薬品会社と渡り歩いた源一。ひとつの職に就き、それを自分なりに理解すると新しいものに挑戦したくなる。技術へのどん欲なまでの好奇心と、いろいろな事を覚えて、1日も早く独立したいという思いが、源一に安住を許さなかったのだ。

 人気がなくなった夜の工場の片隅、裸電球の下で、源一は額に汗して黙々と機械に向かった。1日の仕事が終わった後、自分の勉強をするためだ。上司に頼んで工作機械を使わせてもらい、その操作をひとつひとつ、身体で覚え込んでいった。

 「疲れなどまったく感じなかったな。早く機械が使いこなせるように。ただ、それだけだった」。

 自分の大きな夢が少しずつ現実化していく……。充実感に溢れていた当時を、存命中の源一は、ジャーナリストに向かってこう振り返っていた。

終生の仕事、紙器機械との出合い

昭和31年、満1歳となった英之(現社長)を抱く源一
20歳を迎えた源一は、徴兵検査を受けるため、大正8年9月、10年ぶりに故郷名古屋へ帰った。検査の結果は、身長5尺3寸5分(約163センチ)、体重14貫(約53キロ)で甲種合格。歩兵第6連隊(現在の中区丸の内1丁目にあった)に入隊した。厳しい訓練で恐れられていた軍隊生活も、10歳のときから働きづめだった源一にとっては苦ではなく、むしろ楽だったという。その証拠に、2年後の除隊時には体重が2貫増えて16貫(60キロ)になっていたそうだ。

 除隊後の大正11年2月11日、偶然、蓑田鉄工名古屋工場の前を通りかかった源一の目に、求人の貼り紙が飛び込んできた。紙器機械について何ひとつ知らなかったが、興味を覚えた源一は求人に応募。これが終生の仕事となる紙器機械との出合いになった。

 入社した名古屋工場の社員は4名。大阪の本社から送られてくる機械の納品や修理、受注などを行なっていた。最初のうちこそ先輩の言うままに働いていた源一だったが、機械の仕組みがわかるにつれて仕事が楽しくなり、“初めて自分が満足できる職に就けた”と感じたという。

 源一はひたすら働いた。労働時間は1日10時間(実労9時間)で月に2日の休日。もちろん、こうした労働条件はまったくの形だけで、夜遅くまで休日も返上して勤めに励んだ。大阪本社より送ってきた機械は必ず梱包を解いて全ての部分をチェックした上で、お客様の所へ再発送するようにしていた。その為に、納入後のクレームもなく、お客様より源一に対する信用は高くなっていった。『すぐれた技術によって立派な製品を提供し、お客様に喜んでいただく』。源一の念頭には常にこの思いがあった。言うまでもなく、ISOWAが今に受け継ぐ理念である。

 努力の甲斐あって、名古屋工場の取引先は順調に拡大していった。昭和2年2月から源一の月給は100円に。当時、男子の製造業生産労働者の平均年収が約700円である。小さな町工場の工員が貰う給料としては破格であることがおわかりいただけるだろう。

ついに独立。新工場設立へ

 昭和4年10月、世界大恐慌が起こり、これに続いて昭和5年1月に金解禁、昭和7年1月には満州事変が勃発し、日本経済は大きな打撃を受けた。物価、株価は暴落し、生産活動は低落の一途を辿り、中小企業の倒産が激増。深刻化する不況の下、蓑田鉄工の本社、東京支社にも経営不振が目立ちはじめたのに対して、名古屋工場の業績は順調だった。長年にわたる源一の信用の蓄積が、向かい風の状況で活きたのだ。

 いよいよ蓑田鉄工が行き詰る直前、順調な名古屋工場を残すため、別法人として分離。昭和6年1月、合資会社蓑田鉄工名古屋工場が誕生した。源一は、多額の賃金未払い分と引き換えに、出資者として経営陣に名を連ねることとなった。

 合資会社が設立されたわずか5カ月後、代表の蓑田が死去。昭和7年12月、源一は代表社員に就任。翌年、名古屋市北区報徳町(英一・英之現自宅地)に新工場を建設した。投下資本は5500円。源一が2500円を工面し、残りは妻の実家からの借金だった。当初は新工場の建設に乗り気ではなかった仲間も、源一の意気に惹かれて全員がついてきた。ついに源一は、機械づくりで独立を果たし、夢を現実のものとしたのである。





   文中敬称略