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平成18年7月17日号
ISOWAビトの物語


 会社に製品あり、製品の影に人あり、人に歴史あり―。

 株式会社ISOWAを形成してきたISOWA人―ISOWAビト。

 第2回目、登場するISOWAビトは、齢80、生涯現役ということばがふさわしい技術人、安部悦郎。自然の中で育ち、機械とともに生きてきた彼とISOWAの物語とは…

第2回 自然からの学びをもとに

ナイジェリアでのコルゲータ据付

筆者と安部。筆者の園田はコルゲータグループにて、技術を磨くべく毎日を過ごしている。温厚な性格で、新入社員の中では良いまとめ役としても活躍中である。多彩な才能を活かし、様々な分野で活躍が期待できる大物新人。
昭和53年、安部はナイジェリアに赴き、同国で2台目となるコルゲータの据付に当たっていた。日中には気温50度ともなる猛烈な暑さの中、現地の人々との長い共同作業となった。
「モンキースパナというとね、周りの人達は近くにいる本物のモンキーを指差すんですよ。あれには参ったなあ」

 言葉が通じない中、ほとんどの説明は身振り手振りで行った。ワイヤーの代わりにロープしか手に入らないなど、事情の異なる遠方の異国で多くの苦労があった。日本では馴染みのないことであったが、機械がなかったために自分の手で糊をかき混ぜたりすることもあった。ナイジェリアでは、1回のスコールで数十キロにわたり河の流れが変わってしまう光景も目にした。
「本当に自然というものはすごいものだと感じたね」

 自然に対して、安部は子供の頃から深い思い入れと畏怖を抱いていた。現在の佐久間ダムがある近くに生まれ育ち、天竜川を舟で下り帰りは舟を引いて帰るという毎日を送っていた。自然のものを用いて遊び道具を作ることからが遊びだった。就職した名古屋では戦争末期に三河地震に遭い、住居の近くの大地が裂け湾曲して行く光景を目にした。
「自然に逆らうようなことはしてはいけないね」

 戦時中、野砲やゼロ戦のクランクの加工をしていた経験を基に、昭和33年にISOWAに入社した。機械においては自然の法則を大切にすることを心がけ、機械の不自然な動作については素直に疑問を投げかけた。当時設計部の部長だった神田、工場長だった大石らとは、やりあう事もありながら助け合う、良い仲だったという。

夢のシングルフェーサ

第6回発明大賞表彰式にて。シングルフェーサの誕生に貢献し、昭和56年に発明功労賞を受賞した。
当時の機械の据付においては、いまのトランジットのような装置がなく、正確に直線の配置をすることはむずかしい作業であった。この直線決めの勘が誰よりも優れていたため、あちこちの据付に呼ばれる日々が続いた。次第にお客様からも、社内からも、「安部に真っ直ぐを見てもらわないとだめだ」という声が聞かれるようになった。

 そんな各地への出張と同時に、常に機械に触れている経験を生かし、新しい機械の誕生にも携わった。印刷機では、当時段ボール機械では用いられていなかったアニロックスロールを利用できないか、試行錯誤を重ねた。インクの転移具合に関する課題がなかなか理論では解決できない状況だったが、ひたすら色々な形状を試すことで実用の道を見出した。

 様々な開発経験の中で、安部の記憶に深く残っているものがある。段ボール機械で長年夢とされていたノーフィンガのシングルフェーサの開発である。それまでのシングルフェーサにとって、紙のガイドを行うフィンガはなくてはならないものであったが、最も壊れやすい部分でもあった。安部も昭和40年代頃から機械据付に赴く度に、フィンガのないシングルフェーサを望むお客様の声を聞いていた。そんなお客様の声にいつかは応えようと、頭の中で機械の構想を膨らませていた。
「段ボール機械に日々付き合っている身としては、本当に夢の機械でした。『ノーフィンガが実現すれば、それこそノーベル賞級の発明だ』とお客様から伺うこともありました」

 紙が力の流れに逆らわずに通るロールの配置をすれば実現は可能であった。
「ただ、私は紙に書いたり説明することが苦手でね。機械を眺めていたり音を聞いていたりすれば、大体どうしたらいいのか思いつくんだが、なかなかそれを人に説明できないんです」

 しかし、次世代の機械を作っていく上で安部の鋭い勘はなくてはならないものだった。理論では表しきれない直感は、設計部の協力を得ることで次第に形を成して行った。その後、段ロールの細かい改良なども経て昭和51年、夢のシングルフェーサは誕生した。解決案を考えすぎてうつらうつらとした時、ふっと我に返る瞬間によくアイデアを思いついたという。互いに仲の良い雰囲気がよかったと語るように、すぐには説明がつきにくいような安部の感覚を信頼してくれた仲間達の支えも大きかった。

新しい時代に思うこと

これまで培ってきた経験と勘をもとに、80歳を超えた現在も精力的に部品の改良にあたっている。
ナイジェリアの出張の後にも韓国、ドイツと海外での機械据付に赴いた。
「どこの国でも言葉は難しかったが、身振り手振りで頑張れば何とかなるもんだ。ナイジェリアに咲いていた真っ赤なブーゲンビリアは今でも記憶に残っているよ」

 日本各地の出張にも赴いている。中でも印象に残っているのは、関西地方のお客様の下で経験した機械据付である。
「あの時は工場の建設と機械の据付が同時に行われたんです。建設業者と私達の作業が重なってしまうこともありました。元々4ヶ月の予定でしたがどうしても工期は延び、せめて半年で終えるために何度か徹夜で作業をしました」

 それでも、と続ける。
「終戦後、小さな工作機械であらゆる部品の加工をしていた頃の方が大変だったかも。あの頃は本当に何もなかったから」

 年齢を重ねて、考古学や天体物理にも少し関心が出てきたと話す。昭和の時代、湯川秀樹の中性子理論を知ったときには、やはりと思ったという。
「自然を観察しているとプラスとマイナスだけじゃなくて、その中間に何かあるんじゃないか、とそんな気がしてくるんです。今はナノの時代になって大正の生まれの私にはよく分からないことが多くなって来ました。でも、自然をよく見て理解することは一番大切なことではないかと思います」

 80歳を過ぎた今でも安部は自然への純粋な驚きを忘れていない。




   文中敬称略