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平成18年11月17日号
ISOWAビトの物語


会社に製品あり、製品の影に人あり、人に歴史あり―。

株式会社ISOWAを形成してきたISOWA人―ISOWAビト。

今回ご紹介するISOWAビトは、現在サービス部門を統括する南二郎。

数多くの部署を渡り歩き、様々な立場からお客様と、そして機械と関わってきた彼の物語とは・・・

第6回 度重なる異動、変わらぬ思い

機械の発展とともに過ごした時間

右が営業時代の南、左は太田(当時の営業担当常務)。東京での展示会IGASにて。(平成4年、6月)
 「色んな仕事をして来てよかったのは、たくさんのお客様、仲間に出会えたことですね。」

 ISOWAで仕事に携わってきた年月は段ボール業界が発展をし、機械とともに進歩を続けた幸せな時間だったと南二郎は振り返る。

 南がISOWAに入社したのは昭和43年のこと。名古屋サービスでの1年の勤務の後、東京営業所への転勤の話を受けた。まだ10代だった青年にとって東京での勤務の誘いは願ってもないものだった。

 「経験の浅い時期に行くことができたのはよかったですね」

 東京での担当はサービス。サービス部署は修理業務だけではなく、据付から修理・部品販売に至るまで、機械のすべてを担当している。しかし、勤務当初は大きな据付を行った経験もなく、不安な気持ちもあった。担当は印刷機。プリスロのISOWAとして既に大きな支持を得ていた時期であり、納入される印刷機に対するお客様の期待は想像以上だった。

 「当時、印刷機械の納入はお客様にとって今よりもっと大きな事でした。大安吉日に据付を始めて、試運転も大安吉日に行う。1つの行事のようでしたね」

札幌に機械据付へ

ドイツの取引先と装置導入の打合せ。左から内藤(現名古屋サービス)、松井(第3回登場、現コルゲータグループ)、南。(平成9年、1月)
 東京での勤務が始まってから1ヶ月程経った頃のこと。札幌での印刷機の据付をやってみないか、という話を受けた。ただし、担当は1人。果たして自分にできるのかどうか。迷う気持ちはありながらも、「やらせてくれ」と一言伝えた。上野駅で協力会社の面々と落ち合い、列車に乗り込んだ。北海道に行くのも初めてのこと、列車の中でも正直心細い気持ちだった。

 名古屋にいた際にも小さな据付の経験はあったものの、やはり慣れない作業の連続である。1日の作業を終えたところで改めて機械を眺め直してみる。何かがおかしかった。左右の高さが異なっている、チェーンが1コマ分ずれていたのである。協力会社のメンバーに再度声をかけ、機械をバラして組み直しを行った。

 ようやく据付が完了したところで試運転の運びとなった。ところが運転指導の経験は全くなかった。協力会社のメンバーは引き上げてしまい、内心途方に暮れた。しかし、幸運にもお客様の中に同類の機械の運転経験を持っている方がいた。その後は運転の方法を必死に学びながら試運転を続けた。

 「いま思えばあれがいい転機になりましたね」

 ともかく、1人で機械を据え付けたという自信を得て東京に戻った南は、周囲からも一目置かれる存在となった。同じく東京でサービス勤務にあたっていた先輩の神村(第1回登場)、尾崎らとはその後も続く厚い信頼関係を築いた。

 機械系の出身だったが、電気関係の不具合が起こればテスタと回路図を持ってお客様の元へ向かった。急いで営業所を出る背中には、「直るまで帰って来るな」という声がかけられた。やっと完成した回路に電気を通してみると、ショートが起こって一からやり直し。そんな事も幾度となくあった。

 「僕達の仕事は、修理業務だけじゃない。つねにセールスエンジニアでありたいと思っていましたね。お客様の元の機械を順調に動かすためなら、電気関係でも何でも担当しました。そして、作業を終えた後にはきれいな服装に着替えて、お客様が日頃困っていることなどを詳しく伺う。そういう時間も大切にしていたんです」

様々な立場で

南と筆者の園田。南は現在、サービスの部門長として再び東京にて勤務。これまでのさまざまな部署での経験を活かし、広い視野を持ってサービス部門の活性化に取り組んでいる。
 東京での8年間の勤務の後、本社でコルゲータの設計業務に携わることとなった。セールスエンジニアとしてでなく、今度はお客様の元に設計者として伺う。サービスの業務を通して得た信頼が活きることも多かった。

 「設計の新人は修理業務を担当する慣わしでした。ただ、次の新人がなかなか来なくて・・・。そのうちに内緒で新しいダブルフェーサの設計を始めたんです。歴史あるダブルフェーサCDLを時代に合ったモデルに改良したかったんです。それが現在のCDL2です」

 後にダウンスタッカCDSの開発に加わり、CDS3の誕生の中心となった。機能の向上を図るだけでなく、外観を美しくすることにもこだわった。機械を日々使うお客様の視点に立った設計を心がけた。CDS3は、国内2台、海外1台の計3台を同時に納入したこともあった。

 「とにかく時間がなくて、時間がなくて。予定していた社内旅行にも行かずに、梶田さん(第3回登場)と2人で毎日30枚くらい部品を描きました」

 在籍した期間は、ISOWAのコルゲータが大きく進歩を遂げた時期でもあった。

 「お客様との信頼関係の下で、納入する度に機械のライン速度を上げて行きました。あの時期に培われた技術は今でもISOWAにとって大きな財産になっていると思います」

 その後、東京から神村が戻って来たのを機に、新たな部署、技術サービスの開設に携わった。修理が必要となった原因を技術的に捉えて解決する。サービスと技術、2つの業務を経験してきた南だからこそできる仕事であった。その後も営業や製函機の開発など、様々な業務を経験してきた。

 「新しい部署に変わるとき、後ろを振り返ることはありませんでしたね。行き先が僕を必要としてくれている。いつもそう思ってやってきました。機械を通じてお客様が望まれることを実現する、それはいつも変わりません。少し前のことですが、昔修理に当った機械が引退して、大切に取って置かれているのを見たことがあります。たくさんの役割を果たした機械だから、と。嬉しい気持ちになりましたね」

  始終、笑顔を絶やさず話を続ける南であった。




   文中敬称略